上田久美子の演出に惹かれて観劇。マスカーニ作という両作は初めて知ったが、「田舎騎士道」の間奏曲は聞き覚えのあるものだし、曲自体は華やかでオペラらしい起伏に富み聞き応え十分。が、字幕で見る限り歌詞は退屈で、ストーリーは現代の感覚ではつまらない。そこを、歌手とダンサーが二人一役で演じることで、情報量を増やしたという。歌手はドレスやジャケットといった時代にあった衣装で原作の19世紀イタリアの世界を演じ、ダンサーは現代大阪に置き換えた世界を身体で表現する。オペラの歌詞の逐語訳と大阪弁に翻案したセリフが同時に表示されるのも面白く、大阪弁のセリフは俗っぽく生々しい。「文楽スタイル」ということで、歌とダンスで分業するのかと思ったら、歌手も演技するし、時にはダンサーと絡んだらもするので目を離せず、一度にあれもこれも見て情報処理しなければならないのは少し忙しなく感じた。
「田舎騎士道」はだんじり祭の準備が進む中、2組の男女の痴情のもつれから殺人がおこる。とても卑近な話なのに、オペラになるとどこか高尚な感じがして、歌詞も逐語訳ではぴんとこないところを、大阪弁に置き換えることで、登場人物の感情が露わになり、音楽の大仰さと釣り合うようになったと思う。
ダンサーの身体表現も秀逸で、特に聖子(三東瑠璃)の叫ぶような踊りが印象的だった。日野(アルフィオ)役の宮河愛一郎はカリスマ感があり、目を惹かれた。
「道化師」の方は、旅芸人の一座を大衆演劇の一座に置き換えたもの。すでに同じ手法を見ていたせいか、「田舎騎士道」ほとのインパクトを感じなかった。加美男(カニオ)役の三井聡に期待していたのだが、それほどでもなく、ヒロインの寧々(ネッダ)が蘭乃はな、富男(トニオ)役が芋洗坂係長だったりと、ダンサーというより演技だった。
両演目とも幕前から舞台に路上生活者が2人いて、劇中も舞台に絡んでくるのだが、これはどういう意図だったのだろう? 現代とつなぐ橋渡し的な役割? どちらも最後に殺しがあった後、彼らが舞台上で物を撒き散らかしておわるのだが、ワンパターンに感じた。
初日の数日前に、上演順を入れ替えるという知らせがあったのだが、なぜだったのだろう?「道化師」のほうの冒頭に、口上人形が二人一役や大阪弁の字幕のことなど、今回の上演について述べたのだが、これって初めに上演する前提のはず。そのまま残して順序を入れ替えたのが釈然としないというか。
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