2019年2月19日火曜日

0214 罪と罰

休憩を挟んで3時間40分という時間が増長でなく濃密。
階段状の装置に家具やガラクタが積み上げられた舞台は、当時のロシアな混沌を表すよう。キャストは役でない時もアンサンブルのように舞台にいて、背景や心情を表現する。チェロやアコーディオンの演奏家が役者に交じって舞台上を動き、時にアンサンブルの一部になるのもおもしろい。
ラスコーリニコフの三浦春馬は体を絞って役作りをした甲斐あって、落ち窪んだ目が印象的。メイクの効果もあるのかも。熱に浮かされたような不気味な様子で、急に意識を失って倒れこんだり、床を転げ回ったりと身体表現も駆使しての熱演。自分は特別な存在で罪を犯しても許されるという思考は「スリルミー」にも共通する。
ソーニャの大島優子はよく通る声がいい。賢くはないのだけど、結果として生母のように救いをもたらすソーニャによく合っていた。
ソーニャの義母役の麻実れいは原作にはあったか覚えてないが、間狂言のようなかんじ?
貧しさが滑稽になってします悲しみといおうか。
舞台上のガラクタは物語が進むにつれて片付けられ、ラスコーリニコフが刑に服してシベリア送りにされたところではほとんど何もなくなる。背景の壁がひらいて光が差し込む。許しや希望を匂わせるラスト。

2019年2月17日日曜日

0216 茂山狂言会 春 四世茂山千作七回忌追善公演

小舞3番は慶和の「岩飛」鳳仁の「雪山」宗彦の「蛸」。蛸の足のようにぐにゃりとしたり、蛸口になるのが面白い。

「骨皮」
蓮の新発意は棒読み調で面白いことを話す可笑しさ、子供らしい可愛さで笑いをよくとっていた。膨大なセリフをよくこなしたが、時折終盤はセリフが入りきっていなかったようで空に目を泳がせたり、終盤は後見の茂が出だしの一言をささやいたり。息子が心配なのか、茂がいつもに増して真剣な表情。老僧の七五三はとぼけた感じがいい。檀家は竜正、虎真、千之丞(病欠のあきらの代役)。竜正と虎真はセリフ回しも落ち着いて子役から脱しつつある感じ。

「那須語」
逸平の那須与一が勇壮な武士らしい。

「空腕」
千作の主人と千三郎の太郎冠者。千三郎が汗で衣装の色が変わるほどの熱演。

舞囃子「頼政」
金剛龍謹がいつもに増した真剣な表情でりりしい。やはり声がいい。

「通圓」
千五郎の通圓。能と続けてみるとパロディであることがよくわかる。葛桶に座って身体を左右に回転させたり、扇の代わりに団扇を持って舞ったり。結構シリアスというか、あまり笑いがない感じで、元の頼政を知らないと楽しめないのかも。

0215 ピッコロ劇団「マンガの虫は空こえて」

少年期の手塚治虫を3作の漫画を原作に描いた。手塚=大寒少年役の三坂賢二郎が身体は強くないけど、賢くて、漫画で人を楽しませようという信念のある人物を造形。
前半で大寒が追いかける幻の蝶ゼフィルスと後半、学徒動員先で思いを寄せる宝塚音楽学校の生徒、京子を今井佐知子が演じるのだが、せっかく同じ役者なのだから、京子に会ったときに「蝶に似てる」とかなんとか一言あってもよかったのでは?今井は蝶の時、膝が伸びていないのが気になったが、京子からラストの男役の凛々しさまで、振り幅のある役をよく演じきった。合唱部分のはじめにソロで歌うのも、清々しくて好印象。
いい年のおっさんたちが、中学生を演じる無理は多少感じたが、バンカラ=明石役の孫高宏は無骨で根は優しい少年を好演。
神社に隠れる脱走兵の恋人幸子役の野秋裕香。学ランを着て少年のふりをしているのが自然だったが、ラストの蝶を追いかける少年役を見て、あそこは男の子の役を演じているように見えるより、女がふりをしている不自然さがあったほうがよかったのかもと思った。
ピッコロと演出家岩崎正裕のコラボらしく、ところどころ入るコーラスに岩崎らしさが見える。

2019年2月14日木曜日

0212 天下一の軽口男

上方落語の創始者、米沢彦八を駿河太郎。声がかすれていたようで聞き苦しかったが、地声なのだろうか。「つるびんさん」と呼ばせたりして笑いを取っていたが、落語の創始者たる説得力がないというか、魅力が感じられなかった。池乃めだかや内場勝則、西川忠則ら吉本新喜劇と松竹芸能の桂春団治、酒井くにお・とおる、笑福亭銀平、松竹新喜劇の曾我廼家玉太呂、江口直弥、里見羽衣子という異ジャンルの共演が一番の見ものか。OSKの高世麻央が武家の奥方役。

0211 木下歌舞伎「糸井版 摂州合邦辻」

冒頭、暗転から合邦が玉手を刺し殺す場面で始まり、時間軸が行きつ戻りつする展開。玉手と合邦の幼少期の親子関係や、俊徳丸と次郎丸、朝霞姫の関係などが描かれる。歌が多用されているのだが、俊徳丸役の田川隼嗣の歌唱力が微妙で(音はギリギリ外れてはいないのだが、上手くはない)のが辛い。 玉手と朝霞姫の取っ組合いのところで、ヴァイオリン、トランペットの演奏で義太夫のような語りが入るのだが、本物の義太夫節のほうがいいと思ってしまった。

2月10日文楽公演 第3部

「鶊山姫捨松」
簑助の遣う中将姫の被虐の美に尽きる。ノリノリでこれでもかと見せつけるよう。
床は前が靖・錦糸、奥が千歳・富助に錦吾の胡弓。靖は同世代の女御浮舟と桐の谷の語り分けに難あり。人形が一輔、紋臣と繊細な動きのできる人だったので、話しているのがどっちか分かったが。中将姫も俗っぽいのか、姫の気品が感じられず。役に似合わない感じ。千歳は高音が辛いものの、後半の父豊成卿の述懐が聞かせる。
人形は一輔、紋臣がよく、初役で豊成卿を勤めた玉也が意外な配役ながら説得力があった。

「阿古屋」
津駒、織、津国、小住、碩に清介、清志郎、寛太郎の三曲。三曲の演奏は三味線との不協和音が多かったような。琴を弾き始めるところで、清介が撥の反対側で弦を掬うように弾くと不思議と琴のような音が出る。詮議のいわれを語るところ、あってもいいけど、なくても困らない気がする。織は滔々と語ってたが。津国の岩永はよく似合う。

2月9日 文楽公演 第2部

「大経師昔話」

はあ?という話だ。旦那を懲らしめてやろうとお玉と入れ替わるおさん。助けてもらったお礼にお玉の気持ちに応えてやろうとする茂兵衛。誰も悪くないのに過ちが起こってしまうという不条理が描きたいの?にしても、コトに及ぶ前に相手を確かめないのか?
大経師内の段は中が希・清丈、奥を文字久・藤蔵。文字久はニンでないせいか凡庸。「ヤアおさん様か」「茂兵衛か」と詞で終わる段切れが斬新。
岡崎村梅龍内の段は中を睦・友之助、奥を呂・團七。睦の語りがが意外に良く(失礼)、お玉の健気さ?困惑?に引き込まれた。
奥丹波隠れ家の段は三輪、南都、咲寿に清友。不条理劇のような展開に呆然。

2月9日 文楽公演 第1部

「桂川連理柵」
11月公演ではなかった石部宿屋の段は芳穂・勝平にツレで亘・錦吾。前半は舞台に浅葱幕がかかるなか、掛け合いで道行のよう。場面転換すると、掛け合いの太夫と三味線は引っ込んで、通常の語りに。長右衛門の主体性のなさというか、駄目っぷりが際立つ展開。長吉がしたたかで、帯屋とは別人のよう。人形は全員頭巾をかぶったまま。最大で8人が舞台に並ぶので、そのためか。
六角堂の段は希、咲寿、文字栄に団吾。咲寿の長吉が、アホになりきれてないのか、違和感あり。床本をめくるのが妙にキリッと格好つけてるのも変だ。小住との力の差を感じてしまう。
帯屋の前半は呂勢・清治。呂勢が楽しそうでいい。清治が時折舞台に目をやって苦々しげな顔をしていたのはなぜだろう。儀兵衛の玉佳がやりすぎだった?後半は咲・燕三。咲は体調が戻ったようで、声がよく出ていた。高音が苦しそうではあったが。人形はお半の清十郎が可憐。儀兵衛の玉佳が本人そのままのようでイキイキして見えた。

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2月8日 二月大歌舞伎 夜の部

「熊谷陣屋」
吉右衛門の熊谷に葵太夫が丸々一段語るという、おそらく当代一の熊谷。吉右衛門は義太夫狂言らしい重みがあり、語りにも力が入っている。魁春の相模は型通りでちょっと憐れみが薄いようにも感じたが、雀右衛門の藤の方は品を保ちつつ、母の情が感じられた。が、何故だろう。義経が出てきたあたりから急激に眠気が…。菊之助の義経は、貴公子然としていて武士らしくないのだか、それはそれで悪くないはず。さすがに、僧形となった熊谷が花道へ向かう直前で覚醒して、「十六年も…」のセリフはしっかり聞いたのだが。

「當年祝春駒」
曽我の対面を舞踊仕立てで華やかに。五郎役の尾上左近がチラシの写真では子ども子どもしてたのに、以外に大きくて驚いた。大磯の虎の米吉、傾化粧坂少将の梅丸と若手の綺麗どころが並んだが、化粧のせいか梅丸がキツイ顔だったのが残念。

「名月八幡祭」
なんだかなあと感じたのはホンのせいか、役者のせいか。芸者に入れ上げた田舎者が裏切られて逆上するという、籠釣瓶のような展開ながら、全体的にスケールが小さいので物足りなく感じる。新助の気が触れて殺すにしても美代吉1人だし、狂気も凄みよりは惚けた感じ。新助を演じる松緑が可愛げがないというか、可哀想に見えないせいか。玉三郎の美代吉は悪女というより、気まぐれ。騙そうとしたというより、面倒くさくなって、投げやりになったように見える。仁左衛門の船頭三次も悪人というより小者っぽい。新助の職業、縮屋というのが、「シジミ屋」と聞こえて、蜆売りかと思ったよ。


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0203 実験劇場「モーション・クオリア」研究

工藤聡振付の「Necessitudo/ネセシテュード」について。 クレア・カムースと工藤の2人の舞台。抽象的な音楽に合わせて、重力に身を任せたような動きが永遠運動のように繰り返される。どちらかというと、男性の働きかけに女性が応えていくというか、翻弄されていくような印象。身を任せることを強要されているようで、女性が辛そうなのだ。たぶん、身体的にもなかなかしんどいのだろうと思う。モーション・クオリアとは、ピタゴラスイッチのように、重力による動きを様々な動きに転換させていくことなのかな。後のパネルトークで工藤が言っていたのだが、女性が一人で立って離れていくのは、男性の束縛から離れて自立する様を描いたそうだ。なるほど。