2017年9月27日水曜日

0924 虚空旅団「voice training」

話し方教室に集まる人たちは、話し方以前に問題を抱えている。講師のラジオパーソナリティーも母親との確執があるようで、関係を修復させようとする妹と噛み合わなくて病気の見舞いにも仕方なくといった感じ。本音で話すのではなく、演じることが人間関係を円滑にさせるというのは、そりゃそうなのだが、終末期の親族に患者との確執を解決するよう促すというのはどうだろう。できたら理想的だけど、そんなに簡単じゃないからこじれているわけで。

9月23日 文楽巡業公演 夜の部

「曽根崎心中」 生田社前は文字久・清志郎。 天満屋を津駒・団七。調弦が甘いのか調子はずれに聞こえるところが。 天神森は呂勢のお初に芳穂の徳兵衛、希のツレに清志郎、清馗、団吾。 人形は勘十郎のお初に清十郎の徳兵衛。 またかという感じでもはや感動はない…。残念。

9月23日 文楽巡業公演 昼の部

「桂川連理柵」 六角堂を咲甫・清馗。得意げな語りぶり。清馗はミスタッチがあったような。 帯屋は前が呂勢・清治、後が呂・清介。呂勢のチャリ場は悪くはないのだが、何か物足りない。呂は相変わらずの小声で集中力が途切れる。 道行は咲甫のお半に芳穂の長右衛門、亘のツレ、三味線は藤蔵、寛太郎、清公、清允。景事の手数が派手なのは藤蔵の独壇場になりつつある。 人形は一輔のお半が可憐。お絹の勘彌はしっとり。長右衛門の文司は意外感があった。

0922 劇団S-演s「仮説Iを棄却するマリコ」

はせひろいちらしい、とぼけた会話のやり取りが冗長に感じられてちっとも笑えないのは、テンポというか、間が悪いのではないか。上演時間が2時間というのは長すぎる。シャッターの開け閉めなど劇場空間を上手く使っていた。

0922 坂東玉三郎×鼓童「幽玄」

能を題材に、打楽器で描く幽玄の世界。正座して太鼓を叩く演者自身「修行」と呼んでいるそうだが、観客にとっても修行のような2時間だった。粒を揃えたような太鼓の繊細な響きや、クライマックスでの雪崩のようなうねりには感心し、整然とした様子には玉三郎の美意識が感じられた。が、元の作品自体、これといった盛り上がりのないがないのに、ロームシアターという大箱では余計に辛い。また、鼓童メンバーによる謡らしきものも、出だしがピタッとそろわなかったり、音量が不安定だったり。明らかに能楽師のものとは比べようもないのだが聞き苦しかった。

9月19日 床だけコンサートII

三味線7丁による序曲「序章二〇一七」に続く出演者トークが面白い。呂勢の司会で、出演者一人ひとりに異なるエピソードを紹介。宗助は初めて三曲をやったときの思い出。琴も胡弓も嫌いで、特に琴は13弦もあるので近視の宗助は弾き間違えないよう、師匠に言われて暗闇で稽古したとか。清志郎は出演前に周囲にイヤな空気を醸すほどの緊張しい。呂勢が「Mっ気があるから楽しんでるでしょ」とツッコミ。清きは激やせについて。病気ではないそうで、痩せたおかげで正座しても痺れなくなった。力が入らなくなった時期もあったが、それは克服したそう。寛太郎は師匠寛治の稽古について。曲弾きなど教えてもらったが、50年以上昔のことなので記憶が曖昧で感覚で伝えられる。稽古で言われたことを直していくと翌日また違うことを言われる。「昨日はこう言ってましたとか言わないの?」との問いに「言うと目が三角になるので、ハイ、ハイと」「でもハイと(殊勝げに)言うのかと思ったら結構ぞんざいだよね」(←ナイス突っ込み)
清公は研修生時代、小指を立てる癖を直すため、清治に薬指とテープでぐるぐる巻きにされたエピソードを紹介。そう言うそばからマイクを持つ手の小指が立っているのがご愛嬌。燕二郎は師匠と同じマンション(部屋は別)で毎日食事を一緒にしていることについて。普段はその日あったことを報告する程度だが、たまにお酒が入ると芸談を聞かせてもらうこともあるそう。いまでは珍しい師弟関係だ。
睦は奈良でも東京の実家も師匠と家が近所。奈良の家は自分で選んだが、東京の家は「後から師匠が近くに越してきた」。「思い出の場所に師匠が来てイヤだとかないの?」と聞かれ「思い出は全て関西に持って行った」とかわすと「睦は真面目でつまらない」とバッサリ。靖は結婚して二児のパパ。子供ができての変化を聞かれ、「其礼成心中」で主人公の娘が家を出るところで、自分の娘もいずれ…と思ってうるっときたと。燕三も「寺子屋で主人のために小太郎を身代わりに殺すとか絶対無理!」と力説。呂勢もそろそろ身を固めないと、と言われて「男は70でも子供ができるから」とかなんとか言っていたけど。

肝心の「壇浦兜軍記 阿古屋琴責の段」は素浄瑠璃でたっぷりと。まあでもこの段は語りよりも三味線や三曲の演奏を楽しむものだなぁ。あまり感情が迸るようなところはないし。三曲は燕二郎で、琴は緊張した様子だったが、胡弓はダイナミックな演奏。呂勢によると、寛治に稽古してもらった際、「胡弓では『これだけやってもまだ信じてくれないの⁈』とやけになってる」と教わったそう。そう思って聞くと楽しみが増す。

9月18日 文楽九月公演 第2部

「玉藻前

清水寺の段は掛け合いで、津国、南都、文字栄、咲寿、亘、碩に団吾。南都の犬淵源蔵はまあいいとして、文字栄の采女之助は似合わない。逆のほうがよかった。碩が腰元の語りで客席からクスクス笑いが。別に悪くないと思うのだけど、ちょっと力入りすぎちゃったかな?めげずに頑張れ!

道春館は中が希・寛太郎、奥が千歳・富助。千歳は高音が掠れるところもあったが、充実の語り。大落としでちゃんと泣ける。ててじゃわやいは悲哀より力強い。三味線も激しく盛り上げる。

神泉苑は口が咲寿・友之助、奥が咲甫・清介。咲甫は歌いすぎに磨きがかかっているよう。声量はあるし音域も広いのに義太夫らしく聞こえないのはどうだろう。

廊下の段は始・清志郎。義太夫らしい語りだが、女御たちはちと苦しい。
訴訟の段は睦・喜一郎。低音部はいいのだが、高音の掠れが。ちょっとはましになってるのかもしれないが、なかなか直らないものだなぁ。
祈りの段は文字久・宗助。

化粧殺生石は咲甫、睦、始、小住、亘に藤蔵、清き、寛太郎、清公、清允。なんでだろう、かちっと揃ってないようで煩く感じた。勘十郎大活躍はいいのだが、金毛の狐を遣うのに銀ラメの裃はチカチカする。緞子くらいのほうが安っぽくならずにいいと思う。

人形は幸助の采女之助が颯爽としていい。本人の表情のキリリとしているのはいいのか悪いのか。

9月17日 文楽九月公演 第一部

「生写朝顔話」

宇治川蛍狩りの段の中を小住・錦吾、奥を三輪・清友。
明石浦船別れの段は津駒・寛治に燕二郎の琴。
和生の浅香に落ち着きがあり、一輔の深雪が可憐。
浜松小屋は呂勢・清治。喉の調子が悪いのかしきりに手ぬぐいを口元にしていて、高音の伸びがいまひとつ。簑助の朝顔はすごかっただけに残念。
嶋田宿笑い薬の段は口が芳穂・清丈、奥(切ではないのね)を咲・燕三。咲の出だしはまずまずだったが、肝心の笑いが止まらないところの力のなさ。笑い疲れて声も出ないという表現なのかも、とも思ったが、ここは盛大な笑いが聞きたい。
宿屋は呂・団七に清公の琴。ここはクライマックスなのに、力強さが足りない。大井川の靖・錦糸で適正音量が聞けて一安心。靖は顔を紅潮させての熱演。

2017年9月16日土曜日

0915 コンブリ団「夏休みのばあちゃん家」

小学生くらいの男の子が夏休み、一人で、母との思い出の場所である祖母の家を訪ねる。父に内緒で、近所の痴呆症のお婆さんをかわしたり、一人で電車に乗っての旅はさながら小さな冒険。クラスメイトの飼い犬や飛び出し坊や、影法師との会話で母との思い出が語られる。終盤、夢食いという妖怪?のくだりで急に夢のエネルギー=原子力発電の話になるのが唐突に感じられたのが惜しい。少年役を2人の女優と1人の男優がかわりがわり演じるのだが、あまり違和感なく受け入れられた。

0913 マームとジプシー「あっこのはなし」

地方都市の一軒家で同居する30代女性3人の取り留めない日常会話。ああ、こんな話するよねー、というリアルな感じが上手い。同じシーンをランダムに繰り返し、行きつ戻りつ話が進むのはコントのよう。「あっこのはなし」はあっこさんの話だったり、あ、この話しようだったり、あっこ野放しだったり、あっこ鼻血だったりの言葉遊びの要素も。若々しい芝居で、役者の発声に聞きづらいところも。

2017年9月13日水曜日

0911 ミュージカル「レ・ミゼラブル」

曲はやはり素晴らしいのだが、残念ながらあまり泣けなかった。唯一涙がこぼれたのはエポニーヌ(松原凛子)のソロのみ。日本語だからなのか、キャストのためか。観終わって何か物足りない感じだ。 ジャン・バルジャンの福井晶一は特に悪いところもないのだが、打ちだしが弱い。シャベールの川口竜也も同様。キーが高いのか、もっと低音のどっしりした感じがほしい。テナルディエ夫妻は駒田一と鈴木ほのか。もっと愛嬌がほしいところ。憎たらしく嫌な奴で終わっている感じ。コゼットの生田絵梨花はキンキンした声でコゼットの可憐さとは違うような。マリウスの内藤大希は頼りなさげで、どこに一目ぼれしたのかわからない。 アンジョルラスの上原理生は何度もやっているせいか達者で安定感がある歌唱、演技で好感が持てた。

2017年9月10日日曜日

0909 「地域とつくる舞台」シリーズ アイホールがつくる「伊丹の物語」プロジェクト 「さよなら家族」

市民から寄せられた写真でつづる伊丹の歴史。豆腐屋を営む女性とその家族を軸に、戦後から現在までを描く。 近くの空港で発着する飛行機の爆音、大阪万博でタイからきた象が行軍したことなど、地元の人にはへえというエピソードなのだろう。姉と弟の喧嘩のようすなど、昭和の家族の「あるある」という懐かしさ。豆腐屋の作業のパントマイムが、豆腐屋の仕事を知らない人には分かりにくく、長く感じた。昔伊丹にあったというストリップ小屋のエピソードは写真もなく、なぜ取り入れたのか不明だったりと、やや冗長に感じた。

9月8日 大阪女優の会「あきらめない、世界を~不寛容社会からの脱却~」

今年で15回を迎える、反戦の公演。10代から90代までの女優・俳優が作り出す舞台がこれだけ続くというのは立派なものだ。 脚本は伊地知克介、岩崎正裕、小原延之の合作?で、構成・演出を岩崎。だからなのか、エピソードの寄せ集めという印象をぬぐえなかった。不寛容な社会の象徴として、戦後の歌謡曲の放送禁止事例(正確には放送局の自主規制)の紹介、「君が代」のアレンジについて、戦時中の演劇に加えられた検閲ついてなどを紹介する構成。。知らなかったことで「へえ」と思うところもあったけど、歌や急な展開に誤魔化されたようだった。

9月7日 大槻能楽堂ナイトシアター 第一夜

大槻能楽堂による初心者向けの公演。大槻文蔵とわかぎえふによるトークで能の基本や演目の見どころを解説したのち、今回は「土蜘蛛」。視覚的に派手だし、初心者向けにはいいと思う。「能って難しい?いえ、決してそんなことはありません」というサブタイトルがついていたのだが、文蔵は「簡単とは言えない」とバッサリ。仰るとおりではあるのだが。簡単ではないけれど、分からないなら分からないなりの楽しみ方があるよということか。パンフレットに土蜘蛛には朝廷に楯突いた人々の象徴という説明はなるほどと感じた。土蜘蛛の精は大槻裕一。若々しく、キビキビとした印象。客席には初めての人も多く、普段とは違うざわざわした雰囲気だった。

0907 ミュージカル「ヤングフランケンシュタイン」

小栗旬が登場すると会場中から黄色い声援。人気はすごくあるようで、客席は満員だった。奥さんネタとか、個人的なことでくすぐったり、アドリブのギャグを繰り出したりとおふざけを頻繁に挟んで笑いを取ろうとしていた。歌が壊滅的に下手なのに驚いた。曲はキャッチ―で聞きやすいのだが、なぜ彼でミュージカルをしようとしたのか不明。フランケンシュタインの役にはまっているとも思えないし。ムロツヨシや瀧本美織、賀来賢人らがエキセントリックな登場人物をうまくこなしていた印象。だが、ストーリーは二の次で、小ネタで笑わそうという感じで、私は乗れなかった。会場は笑っていたけれど。ブリュッハー役の保坂知寿が歌、芝居ともに達者。なんとなく様子が分かってしまったので1幕で退場。

2017年9月5日火曜日

0904 プレイヤー

イキウメの前川知大の脚本を長塚圭史が演出。藤原竜也や仲村トオルら役者陣も存在感のある人がそろい、2時間50分が長くは感じなかった。 地方都市の劇場で、オーディションで集まった役者が芝居の稽古をしている。劇中劇と劇が入り乱れ、演出家が芝居に入り込んでしまうなど、現実と芝居の境目が分からなくなる。劇中劇は死者の言葉を生きた人を通して再生するという、新興宗教のような団体を描く。脚本を役者を通じて現実空間に再現するという芝居とどこかオーバーラップする。劇中劇で瞑想の指導者・時枝役を演じる仲村トオルが凄みのある演技。藤枝の導きで死んだ女性の知人で事件を追う刑事・桜井(藤原)が次第に取り込まれている様が不気味だ。さらに、桜井の同僚で最後まで瞑想に懐疑的だった刑事までも操り、殺人を犯させてしまう恐ろしさ。カルト教団ってこういうものなのかも。演出家役の真飛聖は場を導く指導者のようで、クライマックスでは芝居に口をはさんで芝居を方向付ける。瞑想集団は環境保護団体でもあって、世界を変えるために精神を残して集団自殺するのだが、どうやった環境が改善されるのかがよく分からなかった。まあ、その辺はどうでもいいのかもしれないが。

9月3日 酒都で聴く素浄瑠璃の会 人間国宝 女義太夫 竹本駒之助を聴く

「加賀見山旧錦絵 長局の段」 駒之助の体調もよかったようで、1時間あまり、たっぷりと聞きごたえのある浄瑠璃だった。お初の感情が高ぶる場面では、見台を叩いての熱演。残念だったのは三味線の力不足。津賀花はスカ撥がたびたびあり、クライマックスの早い手で盛り上げるところも追い込みがたりないように感じた。

2017年9月3日日曜日

0902 よね吉・千五郎ふたり会 第6回「笑えない会」

トークの後、「木六駄」。千五郎の太郎冠者は牛を追う動きがリアルで、牛の群れが見えるよう。酒に酔うところはちょっと煩い。橋掛りのない平舞台だったせいか、茶屋の主人の前を行ったり来たりするのが変な感じだった。 よね吉は「幸助餅」をネタおろし。染丸直伝だそうだが、染丸らしさはあまり感じなかった。中盤、雷が大笑いする途中で幸助のセリフに変わるなど、慌ただしく感じるところももあったが、力の入った熱演で、最後はホロリとさせられた。

0901 ミュージカル「にんじん」

大竹しのぶが38年振りににんじんを演じると話題の公演。懸念された、おばさんが頑張って少年を演じているという痛々しさは感じなかったものの、少年には見えなかった。表情を歪めたり、不自然に手を曲げたりする仕草や子どもを演じる声優のような作り声が不自然で、知的障害の青年みたいだった。 物語はただただ救いがない。現場を受け入れ、自立していくというラストなのだろうけど、にんじんが幸せになると思えなかった。麦畑のセットは美しかったけど。 そのほかのキャストはどれもよくはまっていた。母親役のキムラ緑子が理不尽ににんじんに辛く当たる身勝手さと苦悩を活写。父親の宇梶剛士も自信を失った男の悲哀が感じられた。母親にら溺愛されながら家を出てしまう兄を中山優馬。母親がにんじんばかり構うのが面白くない、ひねくれた様子。結婚して早く家を出たい姉の秋元才加、婚約者の中山義紘もらしかった。女中の真琴つばさは頼もしく、ちゃんと女に見えた。歌は総じてもう一つだったが、名付け親の今井清隆が安定感のある歌唱。 アンサンブルのシーンで、タンクトップに短パンの女性が駆け回ったり転がったり。何の表現だったのだろう。